アメリカでスーツが復権

デザインとモード

アメリカでスーツが復権しているようです。ブッシュ大統領がスーツなどを好む方だからとか、企業内でカジュアル化を進めた結果、生産性が下がったからとする方もいます。何となくではありますが、私は少し違う事、デザインの面から考えてみました。

テーラーはデザイナーでもあります(私自身F.I.M.T.デザイナーです)。紳士服にあまりデザイン性は要求されないかのようにご婦人方に思われている節もありますが、紳士服の差異は細部にあります。

今まで幾つかディティール(細部)などについて書いていますが、それは何時も「修正」という考え方から離れません。つまり守られるべきルールがあるという事です。例えば紳士服のジャケットで、女性のドレスのように後ろでボタンを留めるデザインは考えられません。このような決まりを「モード」と言います。このモードに外れる事は「デ モード」と言い、流行から外れると言う意味合いが強いですが、規則違反という意味もあります。

オートクチュールとファッションショー

ところで話変わって、オートクチュールというフランス発祥の高級婦人服を仕立てる方法があります。女性にとっては常識の範疇に属するのですが、男性では余り具体的な事を知って見える方は少ないかもしれません。オートクチュールは、1858年パリ、リュー・ド・ラ・ぺ(平和通り)に、英国人であるチャールズ・フレデリック・ウォルトが店舗を開いた事に始まると言われています。

まず「提案する」デザインをウィンドウ等に飾ります。次にそのデザインを見た女性客が気に入れば、そのデザインの服をお客様に合わせてオーダーメードします。つまりオートクチュールは、オーダーメイドではあるのですが、今のショーウィンドウによるデザイン広告方法の端緒である訳です。ウォルトは、このデザイン(モード)を次々に変化させました。重要なのはデザインであるとして、そのデザインを売ったわけです。

このオートクチュールのデザイン提案が徹底されると、提案型ファッションショーになります。つまり、デザイナーはその時々に自分が主張する「概念」を服という形で提案する訳です。ファッションショーでは、こんな服は誰が着るのだというデザインを提示しますが、そこで提案されるのは、デザインの概念であるわけで、誰もあの服を着る事はありません。

例えば、殆ど何もかも透ける薄衣のジャケットをデザイナーが提案したとします。まるで裸のようですから誰も決して身につける事はありません。しかしそこで提案されたのは、シースルー素材を使った、涼しげで軽いデザインの服という訳です。婦人服の場合、既製服であれば、そこで提案されたデザインをパターンナーと呼ばれる技術者方が、一般に通用する形に修正する訳です。

モードの二種類の意味

ですから服のデザインにおけるモードには、二つの意味があります。一つは流行という今のルール、そして流行とは関係のない規則の事です。この二つがバランスをとりながら服のデザインは変化していきます。

これは言い方を変えれば、過去からの規則(伝統)と現在の規則(流行)の両者の接着点が服のデザインであるという事になります。つまり服とは今と昔の両方の「文化」そのものであるという事になります。

文化はそう簡単には変わりません。ですから服も同様に、無理矢理これを変えようとすると服の過去からの規則というモードに引っかかり、そのまま反社会性を意味してしまいます。反社会性というと大袈裟ですが、周囲に認められないと言えば良いのかもしれません。逆に流行に外れすぎるのもモード違反です。今、会社勤めに着物を着る事は二重にモード違反です。着物を公共の世界で着なくなって50年近く経ちますから、歴史的という意味のモード違反、同時に現在の規則にも反するモード違反という事になります。

服は自由であるべきだ、とか、自分が何を着ようとも構わない、とか、そのような話を一時期よく耳にしました。特定のスタイルを社会が強要するのはおかしいとの主張です。しかしなぜ、それが未だに受け入れられないか、私はこのような所に原因があるのではないかと、何となく思っています。

カジュアル化を進めていた米国で、なぜまたスーツとジャケットが復権しつつあるのかも同様のような気がします。テロ等で社会性への信頼を失いかけている米国で、その社会性を復帰させるため、服でも過去という名前の秩序を身にまといたいのかもしれません。