ジャケット着用を求めないゴルフ場

ゴルフの楽しみ

私がゴルフを始めたのは50代になってからですから、まだまだ初心者の域を出ません。そのような私がゴルフについて何かを言うというのは、大変おこがましく思うのですけれども、少しだけ思うところがあります。最近増えつつある、ジャケットの非着用を許すゴルフ場の存在について。

ゴルフというのは実に楽しいスポーツです。天気が良い日、真っ青な空に、白球が飛んでいく快感というのは、覚えてしまうとなかなか止められません。もっとも、いい年をした大人が、四人一組になって、さんざんお互いにイジメ合いながら、たかだか4cmの小さいボールを探してかけずり回り、森に分け入り、水に足を突っ込んだり、人には見せられない体勢で苦吟したりと、なんともオロカなスポーツではありますが、そのオロカさが、また楽しくて仕方がありません。

もちろん、自分のスコアが徐々に良くなり、100を超えていた数字が一つ、二つと減っていき、その増減に一喜一憂もしますが、極端なことを言ってしまえば、スコアと同じくらい、そのようなオロカな事、底意地の悪いルール、コースに出る前の準備などが楽しいわけです。いい年をして、ゴルフにいく前夜ともなると、まるで小学生の頃の遠足前夜のような気分、天気のいいことを祈りながら眠りにつくのですから始末に負えません。

しかしゴルフが楽しい最大の理由、正確に言えば「楽しめる」理由は別にあります。ゴルフは遊びの中に社会性を持ち込んだ、ほとんど唯一のスポーツだという点に、本質的な楽しみの理由があると思っています。

無邪気な社会性

若い頃、私はゴルフはオジサンの遊びだと思っていました。そのオジサンの臭いの最たる理由が、その遊びの中に持ち込まれた社会性です。遊びであるにもかかわらず、実社会の色が残っています。分別も、マナーも求められます。その分別臭さがオジサンの雰囲気をまとっているのです。

しかし、ある程度の年齢を経ると、若い頃のような人間関係は望めません。それぞれ利益の事を考えたり、つきあいの事を考えたり、友達すらも損得勘定ではかるところが出てきます。学生時代のような無邪気なつきあい方というのは、まずできません。ですから、一定の年齢に達すると、学生時代に戻りたいと、誰もが思います。

しかし、完全に子供のように戻ることにも抵抗があります。無分別であまりに無邪気な行動や人間関係は、もはや本能的に受け付けません。身につけた分別やマナーを捨てる事には、恐怖心すら覚えます。ゴルフは、大人になった人間が、その身につけた分別やマナーを捨てなくとも許される唯一の遊びだと思うのです。しかも、社会性や分別、マナーの持ち込みは許されても、「現実の利害関係などは持ち込まなくてもいいのです」。こんな最高の遊び、私は他に知りません。

ゴルフではしばしば、「マナーを忘れるな」と言います。しかしこれは間違っているように思えます。「マナーを忘れなくともいい」という点こそが、ゴルフが楽しい最大の理由です。

ですから、そのような社会性を持ち込でも許されることの象徴が、「ジャケット」なのだと理解しています。私は経験しておりませんが、以前では、ジャケット非着用のプレーヤーは、家までジャケットを取りにかえらされたり、貸与があったそうです。しかし、最近では、ジャケット着用を求めないゴルフ場が徐々に増えているように思います。

これは、ゴルフという遊び、スポーツに、社会性を要求しないということです。ゴルフを健康ランドやスポーツセンターのレベルに落とすことでしょう。ジャケット着用を要求しないゴルフ場は、私からすれば、どこからみても、その程度の場所に見えますね。

しかし、これでは、少なくとも私にとって、ゴルフという楽しみの価値は半減以下になります。社交性があり、品があり、悪意や損得勘定のない社会性がある世界、このような世界は、他にどこを探しても決して見つける事はできません。しかし、それをプレーヤーが捨てようと望み、ゴルフ場も望むのであれば、私はゴルフなど面白くも何ともありませんから、やめてしまいます。

・・・私がテーラーだからジャケットの有無に損得勘定あるじゃないかというご指摘、まことにその通りにございます。